日本のマウンドで「精密機械」と呼ばれた右腕が、いまMLBという未知の戦場に立っている。
私が山本由伸のピッチングを間近で見たのは、まだ彼がオリックスのユニフォームを着ていた頃だった。
ブルペンで響いたキャッチャーミットの音は、ただの「ストライク」ではなかった。
空気を切り裂くような音に、思わず息を呑んだ。
山本のボールには、データでは測れない“気配”がある。
トラックマンが示す数値は完璧だが、それ以上に感じるのは、彼自身が球と対話しているような静かな狂気だった。
そんな山本由伸が、どんな少年時代を過ごし、どんな環境で「山本由伸」という投手を形づくっていったのか。
野球を始めたきっかけから、プロの扉を開くまでの軌跡を、数字と記憶の両方から紐解いていきたい。
この記事を読むとわかること
- 山本由伸選手の出身小学校・中学校・高校に関する詳細情報
- 各時代に見えた素顔とエピソード
- プロを志すきっかけと、そこに至るまでの心の軌跡
- 大学進学を選ばなかった理由と、その後の飛躍
- 日本代表として挑んだ国際舞台での姿
山本由伸の学歴とプロ野球での経歴・出生・家族構成・幼児期
1998年8月17日、岡山県備前市。
瀬戸内の穏やかな風が吹くこの町で、ひとりの右腕が産声を上げた。
家族は両親と、2歳年上の兄。
幼い頃から兄の背中を追いかけ、野球という遊びが日常の中心にあった。
本人も「兄の存在がいなければ、いまの自分はいない」と話している。
グラブをはめるたびに、砂ぼこりの向こうに夢が見えた。
それが、山本由伸という選手の原点だ。

幼少期のエピソード
幼い頃の山本選手は、とにかくエネルギーの塊だった。
負けることが嫌いで、悔し涙の数だけ強くなっていった。
学校が終わればランドセルを放り投げ、バットを握る。
夕暮れのグラウンドで、兄と白球を追い続けた。
ただの野球少年――そう呼ぶには少し早熟だったかもしれない。
「負けず嫌い」という言葉の奥に、すでに“職人”の芽が見えていた。
その原点は、兄と始めたキャッチボール。
この瞬間が、彼の人生の軸を静かに決定づけた。

山本由伸の学歴とプロ野球での経歴・小学校
山本由伸選手の出身小学校は、岡山県備前市立伊部小学校。
地元の少年野球チーム「伊部パワーズ」に所属し、ここで野球の基礎と礼儀を叩き込まれた。
監督の「野球は人間をつくる」という言葉を、少年は黙って胸に刻んだという。
小学校時代のエピソード
この頃の山本は、すでに“チームの柱”だった。
投げても打っても光り、誰よりも泥だらけで、誰よりも声を出していた。
学業にも手を抜かず、先生からの信頼も厚かったという。
野球のセンスと努力の両輪が、幼いながらも回り始めていた。
山本由伸の学歴とプロ野球での経歴・中学校
山本由伸が通ったのは、岡山県備前市立備前中学校。
瀬戸内の潮の香りが届く校庭で、彼はさらに野球漬けの日々を送っていた。

野球部では当然のようにエース。
だが彼の本当の勝負場は、放課後のグラウンドだけではなかった。
中学時代、山本は地元の硬式野球チーム「東岡山ボーイズ」にも所属。
そこで彼は“全国”という言葉を、ただの目標ではなく「現実の景色」として見始めた。
全国大会に出場し、すでに140km/hを超える速球を投げ込んでいたという。
中学生にして、そのボールは「未来を先取りした速球」だった。
中学校時代のエピソード
3年生の夏、野茂英雄氏が総監督を務める「NOMOジャパン」に選出される。
これは当時の中学生にとって、いわば“選ばれし者”の証だった。
アメリカ遠征で見たのは、広い空と、自分より大きな選手たち。
だが、怯むどころか「次はここで勝ちたい」と火を灯した。
あの経験が、彼に“プロになる”という現実的な輪郭を与えた。
夢が夢でなくなった瞬間――それが、山本由伸という投手の第二章の始まりだった。
山本由伸の学歴とプロ野球での経歴・高校
高校は、宮崎県の名門、都城高等学校。
瀬戸内を離れ、南国の空の下で彼は“野球留学”という決断をした。

親元を離れる15歳。
友人と笑いながらも、心のどこかで「これが自分の勝負だ」と悟っていた。
練習は厳しかった。
宮崎の夏の日差しに焼かれ、汗がグラウンドに落ちるたび、夢が少しずつ形を帯びていった。
高校時代のエピソード
都城高校では、1年の秋からエース。
マウンドに立つ姿は、すでに“完成された高校生”というより、“未完成の職人”に近かった。
最速150km/hを超えるストレート。
そして、手首の角度で自在に変化するカーブとフォーク。
対戦校の打者たちは、いつも一瞬の“間”を奪われていた。

甲子園の土を踏むことは叶わなかった。
けれど、スカウトのノートには確かに“山本由伸”という名前が残った。
高校3年の夏、彼はU-18日本代表に選ばれ、世界の強打者と対峙する。
ストレートを投げ込んだ瞬間、ボールがミットに収まるまでのわずかな時間――その沈黙の中に、未来が見えた気がした。
甲子園ではなく、世界が彼のステージになる。
あの都城のマウンドこそ、山本由伸という投手の“覚醒点”だった。
大学には進学していません
山本由伸は、大学という道を選ばなかった。
高校を卒業したその瞬間から、彼の視線はすでに「プロ」という現実を見据えていた。
迷いのない決断だった。
それは逃げではなく、覚悟の証だった。

大学に進学しない選択について
本人が明言した理由はない。
だが、当時からその球には「高校生離れした完成度」という評価がついて回っていた。
プロのスカウトがマウンドの端に立ち、ストップウォッチを握る。
ボールがミットに吸い込まれるたび、彼らの眉が動く。
その反応がすべてを物語っていた。
2016年のドラフト会議。
オリックス・バファローズから4位指名を受け、ついにプロの扉を開く。
高校生の肩書きが取れた瞬間、山本由伸という名前が「可能性」から「現実」に変わった。
プロ1年目でいきなり開幕一軍入り。
リリーフからスタートし、やがて先発へ――そして沢村賞3連覇という、前人未到の領域へと駆け上がっていく。
勝負師としての顔に、どこか職人の静けさが同居する。
それが山本由伸の不思議な魅力だ。

そして2023年。
ポスティングシステムを利用してMLBのロサンゼルス・ドジャースへ。
日本ではもう「頂」を極めた投手が、さらに広い空へと歩を進めた。
――数字で測れない覚悟が、彼の球に宿っている。
- 山本由伸選手は岡山県出身。地元の小・中学校を経て、宮崎県の強豪・都城高校に進学。
- 幼い頃から兄の背中を追いかけ、野球に夢中になる少年だった。
- 中学時代にNOMOジャパンに選出され、早くから全国区の存在に。
- 高校ではU-18日本代表として世界を経験。スカウトの目に留まり、プロ入りの道を選択。
- 大学には進学せず、オリックス・バファローズに入団後、沢村賞3年連続受賞という快挙を達成。
- 2023年、MLBロサンゼルス・ドジャースに移籍。新たな挑戦が始まる。
- 努力を積み重ねる静かな情熱と、勝負への集中力――それが山本由伸という人間の核だ。
おわりに
小さな町のグラウンドで始まった夢が、いまロサンゼルスの大空を切り裂いている。
幼い頃、兄と放ったキャッチボールの一球が、彼のすべての原点だった。
そこから積み上げた日々は、才能というより「続ける勇気」の証だ。
親元を離れ、汗と孤独の中で腕を磨き、ついには世界最高峰のマウンドへ。
その姿は、努力が報われることを証明する“静かなドラマ”のようだった。
今も彼は、変わらず淡々と投げ続けている。
勝っても驕らず、負けても顔を上げる――その背中に、野球という競技の美しさが宿っている。
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| プロフィール | |
|---|---|
| 愛称 |
|
| 生年月日 | 1998年8月17日 |
| 出身地 | 日本・岡山県備前市 |
| 血液型 | A型 |
| 身長 | 178 cm |
| 体重 | 80 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 2016年 ドラフト4位 |
| 初出場 | 2017年8月20日 |
| 年俸 | 3億2500万円(2023年) |
| 所属チーム | オリックス・バファローズ (2017 – 2023) ロサンゼルス・ドジャース (2024 – ) |
| 主な球種 | ストレート、カットボール、カーブ、スプリット、スライダー |
| タイトル | 沢村栄治賞:3回 (2021 – 2023) 最多勝利:3回 (2021 – 2023) 最優秀防御率:3回 (2021 – 2023) 最多奪三振:4回 (2020 – 2023) 最高勝率:3回 (2021 – 2023) |
| 表彰 | MVP:2回 (2022, 2023) ベストナイン:3回 (2021 – 2023) ゴールデングラブ賞:3回 (2021 – 2023) |



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