いわさきちひろと言えば、優しいタッチで描いた子供の水彩画が印象的。
時々、「はっ!」とするような優しさがにじみ出ていますよね!
今回は”いわさきちひろ の絵にまつわる生涯(戦争から絵本作家に行きつく迄)”というテーマで紹介していきますね!
いわさきちひろの出生と家族
第一次世界大戦が終結した1918年(大正7年)12月15日未明、千尋さんは母、岩崎文江の赴任先であった福井県武生町(現在の越前市)橘で生まれ東京で育ちます。
母、岩崎文江は、1918年(大正7年)長野県出身の建築技師・倉科正勝と結婚しましたが、その後も単身、武生で教師を続け、千尋を産んだ翌年、夫のいる東京都渋谷区道玄坂に移住しました。
その後、東京で2人の妹(1つ下と4つ下)を産んでいますので、5人家族ですね。
写真をみると皆さん正装されていて、裕福な家庭だった様です!
いわさきちひろの高校
満州事変始まった1931年(昭和6年)千尋12歳の時、東京府立第六高等女学校に入学します。
東京府立第六高等女学校は、1923年(大正12年)に開校した女学校で、現在の三田高校(現在は共学)。
卒業生には初代ドラえもんの声を担当した女優で声優の大山のぶ代さん がいます。
いわさきちひろの高校の偏差値は?
東京府立第六高等女学校は、1950年(昭和25年)1月に東京都立三田高等学校と改称したんですね。
三田高等学校の偏差値は66
当時から絵の才能に溢れていた千尋さん。
加えて頭脳明晰でもありました!
いわさきちひろの絵の先生は?
1933年、千尋が14歳の時、当時東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授だった岡田三郎助に師事し、デッサンと油絵の勉強を始めました。
上記の女性象は”あやめの着物”という作品ですがご覧の様に切手にもなっているんので、皆さま一度は目にした事もあるのでは?
岡田三郎助といえば。女性の像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残し第1回文化勲章を受章した洋画家であり版画家でもあります。
それにしても凄い方に師事していたんですね。
千尋は、ここで、画材に対しての自由な感覚や色調、特に紫により陰影をつけるなど岡田の紫の使い方に影響を受け、自分の画風の基礎ともなりました。
いわさきちひろの字の先生は?
千尋は18歳から小田周洋という女性の書家に藤原行成流の和仮名の書を学んでいました。
墨一色の書でも、筆の走らせ方から生まれる墨の濃淡が書に感情を与えます。
絵だけでは無く書にも向き合った千尋は、筆づかいで生まれる墨の表現の豊かさに惹かれ、水彩絵の具にも応用して自己の作風を完成させていきました。
いわさきちひろの結婚と夫の死
1939(昭和14年)千尋20歳の時に婿養子を迎え結婚します。
親が決めた結婚は当時では珍しくもありませんが、千尋はと言うと「外国へ行けるなら結婚してもいい」という条件でしぶしぶ合意。
2ヵ月後夫の勤務地の旧満州大連(現在の中国遼寧省大連市)に渡ります。
そうした事が原因かは不明ですが、夫は、結婚2年後の1941年に毒物を飲み、首を吊って自殺を遂げてしまうんですね!
そして、太平洋戦争が始まった年の1941(昭和16年)千尋22歳の時帰国します。
いわさきちひろが戦争体験から得たもの
「青春時代のあの若々しい希望を何もかもうち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。
平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます。」
いわさきちひろ 1972年
1942年(昭和17年)千尋は、中谷泰に師事、再び油絵を描き始めますが、1944(昭和19年)25歳の時女子義勇隊に同行して、中谷泰、妹・世史子らとともに旧満州勃利(現:中国黒龍江省)へ渡ります。
しかし、同年、戦況悪化のため帰国。1945年(昭和20年)千尋26歳の5月、東京・山の手の空襲で中野の家を焼かれ、母の実家(長野県松本市)に疎開して終戦を迎えます。
いわさきちひろの戦後
戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。
そして、その戦争に反対して牢に入れられた人たちのいたことを知りました。
殺された人のいることも知りました。
大きい感動を受けました。
そして、その方々の人間にたいする深い愛と、真理を求める心が、命をかけてまでこの戦争に反対させたのだと思いました。
戦争が終わった翌年1946年27歳の時、疎開していた長野県松本市で日本共産党に入党、
上京して人民新聞の記者となり、日本共産党宣伝部・芸術学校に入学。
この頃赤松俊子(丸木俊)に師事。同時に、日本美術会、日本童画会のメンバーとなります。
この頃、自分の描くべき絵はどんなものか悩んでいた千尋。
上の絵は戦争の暗さの中、純真な子供の姿が眩しく、無言で戦争を批判している様な絵ですね。
いわさきちひろ画家として立つことを決意!
1947年28歳の時、単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』(霞ヶ関書房)で、初めて単行本の挿し絵を描いたり、日本民主主義文化連盟(文連)の依頼によって、『お母さんの話』という紙芝居制作したりしているうちに、画家を職業とすることを決意。
いわさきちひろ2度目の結婚は相思相愛の恋から
1949年(昭和24年)千尋30歳の時。
反戦平和運動を通じて松本善明(ぜんめい)と知り合い、初めて相思相愛の恋をします。
しかし、善明の両親はバツイチで7つも年上の女との結婚に猛反対。
その後の2人は、千尋さんが肺がんで亡くなるまで25年間。
純真な愛情の中、綺麗なもの可愛いものを追いながら、
互いを尊重しあって歩んで行ったんですね。
おわりに
ここまで”いわさきちひろ の絵にまつわる生涯(戦争から絵本作家に行きつく迄)”というテーマで紹介して来ました。
戦争という暗い世相の果てにあの優しいタッチが生まれたのでしょうか?
子供の表情が暗い世相の中でも眩しいくらいでした。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
本名:岩崎千尋(いわさきちひろ)
出身地:福井県武生市(現・越前市)
生年月日:1918年12月15日
没年月日:1974年08月08日(肝ガンのため死去)
享年:55歳
職業:作家・脚本家・絵本作家・エッセイスト
画風:ぼかしの水彩画
受賞歴:
1950年 – 文部大臣賞(紙芝居『お母さんの話』)
1956年 – 小学館児童文化賞
1959年 – 厚生大臣賞(紙芝居『お月さまいくつ』)
1961年 – サンケイ児童出版文化賞(絵本『あいうえおのほん』)
1973年 – ボローニャ国際児童図書展グラフィック賞(絵本『ことりのくるひ』)
1974年 – ライプツィヒ国際書籍展銅賞(絵本『戦火のなかの子どもたち』)