🎓 |学歴サマリー
| 小学校 | 渋谷町立 長谷戸小学校(現・渋谷区立長谷戸小学校) |
|---|---|
| 中学校 | 旧制のため「高等女学校(中等教育)」に接続(中学校名としての公表情報は確認できず) |
| 高校 | 東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校) |
| 大学 | 大学進学の公的な確認情報は見当たらず(※次ステップで一次・準一次情報を補強して明記) |
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いわさきちひろと言えば、優しいタッチで描いた子供の水彩画が印象的。
時々、「はっ!」とするような優しさがにじみ出ていますよね!
今回は”いわさきちひろの生涯|学歴と戦争体験から読み解く絵本作家の原点”というテーマで紹介していきますね!
この記事を読むとわかること
- いわさきちひろの学歴(小学校・中学相当・高校・大学)の整理
- 幼少期〜女学校時代に育った感性の土台
- 戦争体験が、絵のテーマを「子ども」と「平和」へ向かわせた背景
- 絵の師・書の師との出会いが、作風にどう影響したか
いわさきちひろが卒業した小学校
いわさきちひろさんは、1918年(大正7年)12月15日未明、母の赴任先であった福井県武生町(現在の越前市)橘で生まれ、東京で育ちます。
そして小学校は、渋谷エリアの長谷戸小学校に通ったとされます(※当時は「渋谷町立」)。

小学校時代のエピソード
ここは、ちひろさんの「やさしさ」の原点を探るうえで欠かせない時期です。
家族の空気、東京の暮らし、そして幼い目に映った社会の変化――その全部が、のちの作品の“余白”になっていきます。
既存記事の流れも大切にしながら、まずは「出生と家族」の背景を、ここで整理しておきます。
いわさきちひろの出生と家族

母、岩崎文江は、1918年(大正7年)長野県出身の建築技師・倉科正勝と結婚しましたが、
その後も単身、武生で教師を続け、千尋を産んだ翌年、夫のいる東京都渋谷区道玄坂に移住しました。

その後、東京で2人の妹(1つ下と4つ下)を産んでいますので、5人家族ですね。
写真をみると皆さん正装されていて、裕福な家庭だった様です!
いわさきちひろが卒業した中学校
ここは少し、制度の話が必要です。ちひろさんの時代は旧制で、現在の「中学校→高校」という一本道とは異なり、
女子の場合、高等女学校が中等教育の中心でした。
そのため「中学校名」として公表・確認できる情報は見当たらず、学歴としては高等女学校(のちの高校に相当)へ接続していく形になります。
ここでは推測はせず、確認できた範囲を丁寧に扱います。
中学校時代のエピソード
ちひろさんの10代前半は、世の中がゆっくりと戦時へ傾いていく時代と重なります。
その空気を吸い込みながら、彼女の内側で「きれいなもの」「可愛いもの」を守りたい気持ちが、少しずつ輪郭を持ちはじめます。
いわさきちひろが卒業した高校
満州事変始まった1931年(昭和6年)千尋12歳の時、東京府立第六高等女学校に入学します。

東京府立第六高等女学校
東京府立第六高等女学校は、1923年(大正12年)に開校した女学校で、現在の三田高校(現在は共学)。
卒業生には初代ドラえもんの声を担当した女優で声優の大山のぶ代さん がいます。
高校時代のエピソード
ちひろさんの女学校時代は、ただ“学ぶ”だけの時間ではありません。
のちに「子どもの一瞬の表情」を描ききる観察力は、このころに磨かれていった可能性があります。
いわさきちひろの高校の偏差値は?
東京府立第六高等女学校は、1950年(昭和25年)1月に東京都立三田高等学校と改称したんですね。
三田高等学校の偏差値は66
当時から絵の才能に溢れていた千尋さん。
加えて頭脳明晰でもありました!
いわさきちひろの絵の先生は?
1933年、千尋が14歳の時、当時東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授だった岡田三郎助に師事し、デッサンと油絵の勉強を始めました。

上記の女性象は”あやめの着物”という作品ですがご覧の様に切手にもなっているんので、皆さま一度は目にした事もあるのでは?

岡田三郎助といえば。女性の像を得意とし、日本的な感覚の洋画に秀作を残し第1回文化勲章を受章した洋画家であり版画家でもあります。
それにしても凄い方に師事していたんですね。

千尋は、ここで、画材に対しての自由な感覚や色調、特に紫により陰影をつけるなど岡田の紫の使い方に影響を受け、自分の画風の基礎ともなりました。
いわさきちひろの字の先生は?
千尋は18歳から小田周洋という女性の書家に藤原行成流の和仮名の書を学んでいました。

墨一色の書でも、筆の走らせ方から生まれる墨の濃淡が書に感情を与えます。

絵だけでは無く書にも向き合った千尋は、筆づかいで生まれる墨の表現の豊かさに惹かれ、水彩絵の具にも応用して自己の作風を完成させていきました。
いわさきちひろが卒業した大学
結論から整理すると、いわさきちひろさんは大学へは進学していません。
その代わり、10代から一貫して「私塾」「師事」という形で、当時の第一線の芸術家から直接学ぶ道を選んでいます。
これは旧制期の女性芸術家において、決して珍しい選択ではありませんでした。
東京美術学校(現・東京藝術大学)教授だった岡田三郎助に14歳で師事したこと、
さらに後年、中谷泰・赤松俊子(丸木俊)らのもとで学び続けたことを考えると、
ちひろさんの「最終学歴」は大学名ではなく、誰から何を学んだかに価値があると言えるでしょう。
いわさきちひろの結婚と夫の死
1939年(昭和14年)、千尋20歳の時、親の決めた縁談により婿養子を迎えて結婚します。

千尋は「外国へ行けるなら結婚してもいい」という条件でこの結婚を受け入れ、
2か月後、夫の勤務地であった旧満州・大連へ渡ります。
結婚から2年後の1941年、夫は自ら命を絶ちます。
千尋は同年、太平洋戦争開戦の年に帰国しました。
いわさきちひろが戦争体験から得たもの
「青春時代のあの若々しい希望を何もかもうち砕いてしまう戦争体験があったことが、
私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。」
いわさきちひろ(1972年)
1944年(昭和19年)、25歳の時には女子義勇隊に同行し、再び旧満州へ。
しかし戦況悪化により帰国、1945年5月には東京・中野の家を空襲で失います。

焼け野原、失われた命、壊された日常――。
この体験が、後のちひろ作品に一貫して流れる「反戦」と「子ども」というテーマを決定づけました。
いわさきちひろの戦後
戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。
1946年、27歳で日本共産党に入党。
上京後は人民新聞の記者となり、党宣伝部・芸術学校で学びます。

この時期、赤松俊子(丸木俊)に師事し、日本美術会・日本童画会のメンバーとして活動。
焼け跡でたくましく生きる子どもたちとの出会いが、画題を決定づけます。
いわさきちひろ、画家として立つことを決意

1947年、単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』で挿し絵を担当。
紙芝居『お母さんの話』の制作を通じ、画家を職業とすることを決意します。
いわさきちひろ、二度目の結婚
1949年、反戦運動を通じて松本善明と出会い、初めての相思相愛の結婚。

「芸術家としての妻の立場を尊重すること」――。
この言葉が、25年間の結婚生活を象徴しています。
この記事のまとめ
- いわさきちひろは大学進学はせず、師事によって芸術を極めた
- 戦争体験が「子ども」と「平和」という画題を決定づけた
- 学歴よりも、生き方そのものが作品に刻まれている
- やさしい絵の裏側には、強い思想と体験がある
いわさきちひろの学歴に関するよくある質問
おわりに
いわさきちひろの学歴と生涯を追うと、
「どこを出たか」ではなく「どう生きたか」が、作品そのものだったことが分かります。
あの優しい絵は、弱さではなく、戦争と向き合った末に選び取った強さだったのかもしれません。
プロフィール
本名:岩崎千尋
生年月日:1918年12月15日
没年月日:1974年8月8日(55歳)
職業:絵本作家・画家
画風:ぼかしを活かした水彩画

