数多くの映画やドラマで唯一無二の存在感を放ち、「必殺シリーズ」の姑役などで日本のお茶の間に広く親しまれた名脇役、菅井きんさん。
80歳を超えて映画初主演を果たし、ギネス世界記録にも認定されるなど、生涯を現役で駆け抜けた大女優です。
その輝かしい活躍の裏には、どのような学生時代や経歴があったのでしょうか。
本記事では、彼女の学歴、芸能界入りのきっかけからその輝かしい軌跡を深く掘り下げていきます。
この記事を読むとわかること
- 菅井きんさんの出身小学校・高等女学校に関するより詳細な情報
- 各学校時代の具体的なエピソードや人柄
- 女優を目指した真のきっかけとデビューの裏側
- 大学に進学しなかった理由と、その後の演劇への情熱
- 名脇役としての地位を確立し、数々の賞を受賞した輝かしい経歴
菅井きんの学歴と芸能界での経歴・出生・家族構成・幼児期
1926年(大正15年)2月28日、東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)で生まれました。
本名は須斎公子(すさい きみこ)さんです。
父親は織物の商いを営んでおり、菅井さんは姉、弟2人、妹の5人兄弟。
幼い頃は内向的で病弱な少女だったと伝えられています。
幼少期のエピソード
幼少期は比較的物静かな少女でしたが、彼女の人生は戦争という大きな時代のうねりに影響を受けます。
戦時中は千葉県船橋市に疎開していた時期もありました。
後に女優の道に進むことになりますが、両親は芝居好きであったものの、菅井さんが女優になることには「女優とは美しい女性がなるものだ」と反対したといいます。
しかし、その反対を押し切って夢を追いかける強い意志を、この頃から内に秘めていたのかもしれません。
菅井きんの学歴と芸能界での経歴・小学校
菅井きんさんの出身小学校は、東京市本村尋常小学校(現・港区立本村小学校)です。
小学校時代のエピソード
当時の小学校は「尋常小学校」と呼ばれており、菅井さんはこの学校で学びました。
内向的だったという幼少期ですが、この時期にどのような学校生活を送っていたかの詳細なエピソードはあまり残されていません。
しかし、戦時下という特殊な環境で多感な時期を過ごした経験が、後の彼女の演技に深みを与えたことは想像に難くないのでは…。
菅井きんさんは1932年(昭和7年)頃に小学校に入学し、1938年(昭和13年)頃に卒業したものと推測されます。
菅井きんの学歴と芸能界での経歴・中学校、高校
菅井さんの出身校は、頌栄高等女学校(現・頌栄女子学院中学校・高等学校)です。
当時の学制では、中学校と高校が一体となった高等女学校が一般的。
頌栄女子学院は現在でも知られる名門女子校で、当時からお嬢様学校として有名でした。
現在の中学校の偏差値は63と非常に高く、完全中高一貫教育のため高校からの募集はありませんが、毎年東京大学合格者も輩出する進学校です。
このことからも、菅井さんが非常に優秀な学生であったことがうかがえます。
高等女学校時代のエピソード
高等女学校を卒業後、菅井さんはすぐに女優の道へ進んだわけではありませんでした。
当時は戦時中であり、男性職員が出征していく中で、人手不足を補うために文部省総務課や東京帝国大学の学生課で事務職員として働いていました。
この社会人経験が、彼女の演技のリアリティに繋がっていったのかもしれません。
菅井きんさんは1938年(昭和13年)頃に高等女学校に入学し、1943年(昭和18年)に卒業しました。
大学には進学していません
菅井きんさんは、大学には進学していません。
高等女学校卒業後は、前述の通り事務職員として働いていました。
大学に進学しない選択について
高等女学校卒業が1943年と戦時下の真っ只中であったこと、また、当時の女性の大学進学率が極めて低かった時代背景を考えると、大学に進学しないという選択は自然な流れであったと言えます。
そして終戦後、彼女の人生を大きく変える転機が訪れます。
それは、演劇との出会いでした。
芸能界へ入る動機及びデビューのきっかけ及び経歴
女優・菅井きんの真のキャリアは、戦後の混乱がまだ残る中で、演劇への情熱から始まりました。
舞台鑑賞が人生の転機に
終戦翌年の1946年、友人に誘われて観た東京芸術劇場の舞台『人形の家』に深く感銘を受けた菅井さんは、自らも俳優を志すことを決意します。
すぐさま同劇団の研究生に応募し、補欠ながら合格を果たしました。
当時20歳の決断でした。
父親からは「女優なんて美人がなるものだ」と猛反対されましたが、その決意は揺らぎません。
1947年、帝国劇場で上演された『林檎園日記』で初舞台を踏みますが、この時、脚本家の久保栄に「菅井きん」という芸名を付けてもらいました。
俳優座、そして映画デビューへ
しかし、入所した東京芸術劇場はすぐに解散してしまいます。
その後、久保栄の紹介で劇団俳優座に入団し、本格的に舞台女優としてのキャリアをスタート。
やがて新劇女優として活動していた菅井さんに、映画界から声がかかります。
1951年、映画『風にそよぐ葦 後編』で映画デビュー。
続いて黒澤明監督の『生きる』や、記念すべき第1作目の『ゴジラ』にも出演し、個性的な脇役として徐々に頭角を現していきました。
「必殺シリーズ」で国民的女優に
菅井きんさんの名を一躍有名にしたのが、1973年から始まったテレビ時代劇『必殺仕置人』です。
藤田まことさん演じる主人公・中村主水を「婿殿!」と呼び、いびり抜く姑・中村せん役が大ハマり。
このコミカルながらも強烈なキャラクターは、ドラマのシリアスな展開とのギャップで絶大な人気を博し、「必殺シリーズ」に欠かせない存在となりました。
その後も数々の映画やドラマで活躍し、1984年の映画『お葬式』では日本アカデミー賞最優秀助演女優賞など数々の賞を受賞。
1990年には紫綬褒章、1996年には勲四等宝冠章を受章するなど、その功績は国からも認められました。
2008年には、82歳で映画『ぼくのおばあちゃん』に主演し、「世界最高齢映画主演女優」としてギネス世界記録に認定されるという快挙も成し遂げています。
この記事のまとめ
- 菅井きんさんは東京都出身で、名門の頌栄高等女学校(現・頌栄女子学院)を卒業した。
- 高等女学校卒業後は大学へは進学せず、文部省や東京帝国大学で事務職員として働いていた。
- 終戦後、観劇をきっかけに女優を志し、父親の反対を押し切って俳優座に入団した。
- 1951年に映画デビューし、個性的な脇役としてキャリアを積んだ。
- テレビ時代劇「必殺シリーズ」の姑役で大ブレイクし、国民的な人気女優となった。
- 数々の映画賞や紫綬褒章などを受章し、82歳での映画主演はギネス世界記録にも認定された。
おわりに
戦後の何もない時代から、演劇への情熱一つで道を切り開き、日本を代表する名バイプレーヤーとなった菅井きんさん。
その個性と確かな演技力は、ユーモラスな役からシリアスな役まで幅広くこなし、多くの人々の記憶に刻まれています。
学業優秀な女学生時代、事務職員としての社会人経験、そして自らの意志で飛び込んだ演劇の世界。
その全ての経験が、女優・菅井きんの血肉となり、唯一無二の輝きを放ち続けたのです。
彼女が日本映画・ドラマ史に残した功績は、これからも永く語り継がれていくことでしょう。
プロフィール | |
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本名 | 佐藤 キミ子(さとう きみこ) |
生年月日 | 1926年(大正15年)2月28日 |
没年月日 | 2018年(平成30年)8月10日(92歳没) |
出身地 | 日本・東京府東京市牛込区 |
血液型 | B型 |
身長 | 155 cm |
活動 | |
デビュー | 1947年 |
ジャンル | 女優 |
所属事務所 | 株式会社仕事 |
主な出演作 | 映画 『生きる』『ゴジラ』『お葬式』『どですかでん』『ぼくのおばあちゃん』 テレビドラマ |
受賞歴 | 紫綬褒章 (1990年) 勲四等宝冠章 (1996年) 日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞 (1985年) 報知映画賞 最優秀助演女優賞 (1984年) |
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