横浜・山下公園の大桟橋側の端にモスク風の建造物があるのですが、調べてみたら意外な事実が判明。
その建造物はインド水塔(水飲み場)
モスク風の造り、色とりどりにきらめくタイルを使った天井の装飾部は、匠の技とも言うべく多彩なモザイク模様が施されていてとっても綺麗。(だから気になっていたのですが…。
この水塔横浜市認定歴史的建造物としても認定されているんですが、衛生上の理由から「水飲み場」としては現在、使用されておらず、インドと日本を結ぶ記念碑として市民に親しまれています。
インド水塔 (昭和14年竣工)
関東大震災にて被災したインド人住宅を同じく被災した横浜市民が手当てし、復興後在日インド人協会が横浜市民への感謝の意思として山下公園にインド式水飲み場を建設した。#近代建築 pic.twitter.com/qPdPiStu9h— 魚交(さめ) (@shark_ishi) January 8, 2021
関東大震災、被災インド人を救助
その震災では、リトルインディアと呼ばれた山下町をはじめ多くのインド人が被災し、28人が犠牲に見舞われるという惨事があったんです…。
日本絹業協会に低金利で融資し、店舗兼住宅を中華街の隣地に造ると、インド商人に提供し、インド人商人を呼び戻したんですね。
これによってインド商社は横浜に復帰、震災の復興にも貢献しました。
ですからインド水塔は日本とインドの友好の碑でもあるんですね
横浜におけるインド人
以外だったのは、インドと日本の関係が横浜開港の頃からのものだったという事。
当時、中区山下町には幾つものインド人商館が出来ていたそうです。
余談ですが、この当時、日本からインドに輸出されたシルク織物は、主に、「サリー」の生地などに使われ、多くのインド人女性の身にまとわれたそうですよ。
21年後の1893(明治26)年には、日本郵船とインドのタタ商会の提携でボンベイ航路が開設され、日印貿易は一層本格化。インド人の増加も加速していきます。




先述のインド商館も2年後の1895(明治28)年には10軒となり、25年後の1920(大正9)年には60軒を超えているんですね。
「インド水塔」修復の方向へ
水飲み場であるはずの「インド水塔」。衛生上の観点から飲料水としては使用できないのですが、実は老朽化の為、水そのものが出ないんですね。下の写真は老朽化した蛇口です。
ところが、ここに来て「インド水塔」が修復されることが、2020年8月に判明。
「インド水塔」へのアクセス
JR京浜東北・根岸線/横浜市営地下鉄ブルーライン「関内駅」より横浜球場→中華街を抜けて徒歩20分
みなとみらい線「元町中華街駅」より徒歩3分
突き当りを左へ行けば山下公園です!








おわりに
ここまで”横浜・山下公園のインド水塔はインドと日本の友好の碑~関東大震災”というテーマで解説してきました。
横浜というと、横浜中華街の中国人とか、山手のイギリス人のイメージが強いのですが、インド人も開港当時から活躍していたのですね。
遠い異国の地で大震災に遭遇。途方にくれるインドの方々を横浜市民と市が救済した事、感謝の意をこめて横浜インド商組合が寄贈した「インド水塔」は今も横浜に住むインド人たちの心の拠り所になっていると言われています。
最後までお読みいただきありがとうございました。