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【難攻不落の小田原城】歴代城主たちの戦い『北条氏から現在まで』

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桜と小田原城

小田原城といえば東京近郊から最も近いお城として、たとえば春などは満開の桜が純白のお城を包み込み、家族ずれ・カップル等多くの観光客が訪れるワクワクするお城。

最近のリニューアルにより重厚さがアップしています。

そんな平和の象徴のような小田原城も日本史には欠かせない重要な歴史を刻んできたんですね。

今回は”【難攻不落の小田原城】歴代城主たちの戦い『北条氏から現在まで』”というテーマで小田原城にまつわる歴史を分かり易く紹介致します。




ではさっそく小田原城の城主達をみてみましょうね!

 

小田原城の歴代城主たち・小早川遠平

もともと「平安時代」の末期、相模の国相模の国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とした 土肥氏一族  小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館であったと伝わっています。(それもあって小田原城を別名小早川城・小早川館とも言います)

この小早川遠平。土肥遠平(改名前)と言った方が判るかもしれません。

あの平清盛率いる平家の世を終演させた源頼朝。

実の親である土肥実平と共に「旗揚げ」の時からの頼朝のブレーンなんです。

ここで小田原と鎌倉がリンクされました。(両者共同じ神奈川県です)

源頼朝の肖像画

源頼朝




そう「関ヶ原の戦い」の中、土壇場で西軍、(豊臣方)を裏切り、 東軍(徳川方)についた「小早川秀秋」は小早川家の末裔なんですね。また「小早川」の名前でピーンと来た方。

かなりの歴女・歴男です。

それから応永23年(1416年)上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国・伊豆国方面に勢力を広げつつ、小田原城も(山城ながら)城としての機能を備えていきました。

※そして北条氏の時代へと進んでいくのですが、この間、能の演目で有名な「鉢木物語」。

鉢木物語の屏風絵
上の画像は鉢木物語の屏風絵。

北条時頼が佐野源左衛門に小田原城与えたという事ですが、佐野氏は実在しても佐野源左衛門は架空の人物でしょう。

ただし、見知らぬ人でも手を差し伸べる優しさと忠義心は見習いたいものです。



小田原城の歴代城主たち・北条早雲

 小田原城と言えば北条氏の城のイメージ。しかも難攻不落

その礎を築いたのが伊勢新九郎盛時いせしんくろうもりとき(後の北条早雲)。


下剋上の元祖で戦国時代はこの人から始まったと言ってもいいでしょう。

※伊勢新九郎盛時伊勢 宗瑞そうずいとも呼ばれていますが、盛時 宗瑞そうずいよりも早雲と言った方がわかりやすいと思いますのでこからは早雲と呼ばせていただきます。

 

よく源頼朝の正室、北条政子からの執権、北条氏と混同しますが、全く別物でなんですね。

区別する為、北条政子の北条氏を前北条北条早雲からの北条氏を後北条と言ったりします。

その早雲ですが11年間、応仁の乱に明け暮れていた京の荒廃ぶりに一念発起。

それえまで仕えていた足利幕府の要職を去り、新天地を求めて駿河の守護大名・今川義忠の元に身を寄せます。

実は早雲(もしくは妹・北川殿・年齢不詳)は今川義忠の夫だったんですね。その関係で今川家の家臣になります。

しかしその義忠が敵対勢力の討伐後、残党の一揆により流れ矢に当たって討ち死したことにより、今川家の跡目相続争いが勃発。、

早雲今川義忠の実子龍王丸を擁護し、今川家の当主今川氏親うじちかと名乗らせることに成功。
今川氏一門の家系図
この功績により、早雲は富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城の城主となります。

 

 

当時、伊豆で最大の勢力をもっていたのは堀越公方でしたが、初代堀越公方の足利政知が病死すると、義母と異母兄弟及び家臣を殺害する等、内紛を起こした足利茶々丸が家督を相続。しかしこの内紛で旧臣の支持を失い、その影響は伊豆国内に及びます。

この機に乗じて早雲が鈴木繁宗・松下三郎右衛門尉・大見の三人衆達と共に足利茶々丸を襲って伊豆を平定。

ここに来て戦国大名としての本能が早雲の中に芽生えたのでしょうか?伊豆一国では満足できず、こののち伊豆の北部、相模への進出を企てていきます。

 

進出の先駆けとして狙いを定めたのが、城主大森氏頼うじよりが亡くなったばかりの小田原城です。(やっと出てきましたね~)

1501年(明応10年)、早雲は小田原城の主である大森藤頼ふじよりに、鹿狩りをしていたら鹿が小田原城の裏山に逃げてしまった、失礼ではありますが、鹿を返すため、勢子せこを裏山に入れる事を許可して欲しい」という旨の手紙を送りました。
手紙を読んだ大森藤頼が裏山に入ることを許可すると、早雲は夜を待って勢子に化けた早雲の一隊と松明をつけた牛数頭を城に突入。ときの声と共に迫り来る松明の多さに大軍到来と思い込み、大混乱を起こした大森側は城を捨てて逃亡早雲は見事小田原城を手に入れます。

 

しかし、早雲は88歳で亡くなるまで韮山城を居城としていたので実際小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初からなんですね。

以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代100年にわたって南関東における政治的中心地としてその勢力を拡大していきました。
北条氏の5代100年にわたる家系図

また、上杉氏や武田氏の侵攻に備え城下を囲んだ総構そうがまえは9kmに達し、より難攻不落の感を深めていきました。

北条氏略系図

永禄4年(1561年)敵対す上杉謙信が越後から進軍し、10万を超える(関八州古戦録では11万3千)大軍勢で北条氏康の小田原城を包囲。(小田原城の戦い)

1ヶ月とも言われる籠城戦(実際は10日間ほどの包囲だったらしいが)の末にまずはこれを凌ぎます。

また永禄12年10月1日から4日(1569年11月9日から12日)にかけて、今度は武田武田信玄が小田原城を包囲しますが今回も防ぎ切り、(最もこの時の攻撃は威嚇行為で総攻撃では無かったらしいのですが…)小田原城は難攻不落との評価を高めていきます。

また豊臣秀吉の攻撃に備え城下を囲んだ総構は9kmに達しました。

小田原城の歴代城主たち・豊臣秀吉

l00年もの間栄華を高めた小田原城も、城攻めの知識と圧倒的な経済力の豊臣秀吉の前では太刀打ち出来なかったようです。

秀吉は、徳川家康を代理人として隠居した北条氏政と五代城主の北条氏直大阪城への上洛を再三命じていました。

しかしその上洛命令を北条側は完全無視

 

農民上がりの秀吉を見下していたのと、難攻不落の小田原城が落ちるはずがないとの思い込み、また密かに「徳川家康伊達政宗の見返りを期待していた」とも言われています。(伊達政宗はぎりぎりで上洛 死に装束で秀吉に謁見したのは有名な逸話)

再三の上洛命令にも動かぬ北条氏に業を煮やした秀吉はついに北条氏への攻撃を決意。

配下の諸大名と小田原城の総攻撃に転じます。

天正18年(1590年)北条氏政と当主氏直父子が守る小田原城に豊臣秀吉が、佐竹義重・宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を包囲。(小田原征伐又は小田原合戦、小田原の役)

小田原城を包囲網

また、この戦いに勝利すれば、かって仕えていた織田信長の「天下布武」を実質達成出来るとあって物資を惜しまず投入。

小田原城のそばに一夜城を作って城兵に心理的ダメージを与えながら取り囲んだり、関東に点在する北条氏の100ヶ所以上の支城を個別に攻撃したりして3か月の篭城戦の末、ほぼ無血状態での開城に成功。

 

同時に5代100年にわたった北条氏の小田原城はここに終焉しました。

 

小田原城の歴代城主たち・徳川幕府時代

天正18年(1590年)の小田原合戦後、北条氏の領土を含む関東は徳川家康に与えられましたが(というよりも駿河から関東への国替え)小田原城は家臣に与え、自分はアシの生い茂る沼地の江戸城を居城としました…。

一見「都落ち」のようにも感じますが、そこは石橋を叩いても渡らないタイプの家康。この事は徳川家康の防衛策の一環なんですね。

 

関東一円の要所に譜代の有力武将を配置し自分はその中心の江戸城に居住するという事。

 

つまり井伊直政上野国箕輪城に、榊原康政上野国館林城に、本多忠勝上総国大多喜城へ配置し、そして豊臣秀吉等の脅威が最も懸念される西には小田原城。

譜代の大久保忠世の肖像画

その城主は最も信用している譜代の大久保忠世を配置するという構図。

加えて大久保氏の城入りに際しては小田原城もより防衛力の高い石垣と瓦屋根で守られた「近世城郭」に改修されました。

しかし文禄3年(1594)忠世が死去、嫡男忠隣ただちかが家督を継ぎますが、この忠隣がなんと改易になります。

 

理由は旧穴山衆の浪人・馬場八左衛門が忠隣が謀反を企んでいると訴え出た事や大久保長安事件に際して長安との係わりを疑われた事です。

確かに忠隣の孫は、豊臣秀頼の家老片桐且元を監視する為、甥にあたる石見守貞昌に嫁いでおり、逆に言えば秀頼との距離がその分近くはなるのですが、謀反に際しては馬場の虚言と解釈されており、大久保長安とも係わりだけなので今で言うなら完全な冤罪となるべきものです。

また当時対立していた本多正信・正純父子が忠隣を失脚させる為に仕組んだ謀略とも言われていますが真意の程は定かではありません。

しかし家康はこれを許さず、忠隣を改易のうえ、近江に配流という重い処分

そのまま許されず、彦根の井伊直孝の保護のもと、死亡寛永5年(1628)死去しました。享年75歳

家康にしてみれば、(秀吉の死によって秀頼に代替わりしたとはいえ)まだまだ西への脅威は潜在的なものであり、ましてやその要の小田原城。その城主に対して、猜疑心が生まれたなら…。

過去にいくら功績があっても替えるしかなかったし、出来たばかりの幕藩体制をこれから盤石なものにしていくには、特別扱いもしてはならなかった。

徳川幕府の指導者としては辛いところですね。

見落とされがちですが、小田原城が、当時の江戸城より大きかった事も改易のひとつの理由だったそうです。防衛の為改修した事が、謀反の準備と捉えられていたんですね。忠隣の改易後、直ぐに三の丸の門・やぐら・石垣・外郭の門等が破壊されました。


忠隣の次に抜擢された新城主は、上総国大多喜藩主の、阿部正次(後の大坂城代)でした。
元和5年から元和9年(1619年 - 1623年)までの5年間、城主となりましたがその後、稲葉正勝が城主になるまで城主は幕府の番城となり侍大将等が交代で城代になりました。
また、寛永9年から貞享2年(1632年 - 1685年)大久保忠朝をして、大久保家が再興するまでの53年間は稲葉 正勝・稲葉 正則・稲葉正往達稲葉家が城主を遂行します。

 

そして貞享3年(1686年)、かねてよりの宿願がかない、大久保忠朝が小田原城主に復帰

幕末まで大久保家が世襲し西からのはこの重要な役割を担ってきました。

 

小田原城の歴代城主たち・現在の小田原城

小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内ほとんどの建物は解体されましたが、大正12年(1923)9月の関東大震災によりわずかに残っていた石垣もことごとく崩落してしまい、江戸時代の姿は失われてしまいました。、

現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。

また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。

そして本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971)には常盤木門、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門が復元。
馬出門

次いで平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面リニューアルが行われ館内が明るく落ち着いた雰囲気になりました

 

小田原城の歴代城主たち・まとめ

【難攻不落の小田原城】歴代城主たちの戦い『北条氏から現在まで』北条早雲豊臣秀吉徳川家康といった戦国時代のスター達が携わっていた小田原城。

戦国時代とは打って変わり、今は「城址公園」として家族ずれやカップル達で賑わっています。

桜が美しい小田原城

この周りを沢山の兵が取り囲み功名を競っていたとは思えない程平和な姿

特に春は眩しいくらい桜が綺麗ですよ。



そして地上38.7mの天守閣からは相模湾が見下ろせます。小田原征伐の際はこの海に九鬼水軍を始めとした軍艦が並んでいたんですね。

「夏草やつわものどもが夢の跡」

最後までお読みいただきありがとうございました。

※尚、2022年8月現在コロナ対策のため小田原城NINJA館では一部アトラクションを休止していますが、それ以外の施設は通常どおり開館しています。



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