山下公園(やましたこうえん)は、神奈川県中区にあり、東京湾に沿って横に長い公園で、市民の憩いの場として、また休日には観光客も加わって大いに賑わいます。
そんな平和な山下公園ですが、公園には暗い歴史も…。
今回は”山下公園の歴史と7つの記念碑(赤い靴の少女には悲しい実話が…)”というテーマで解説していきますね!
山下公園の歴史と7つの記念碑【歴史】
山下公園は今からおよそ90年前、1930年(昭和5年)3月に開園したのですが、実は。関東大震災でつもりに積もった瓦礫を大正14年から4年がかりで埋立て埋め立てて作られた公園なんですね。
なんだかダークなイメージですが、開園5年後の昭和10年3月には山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)で百万円博といわれた復興博覧会が行われ、来場者数は330万人でした。
近代科学館、復興館、開港記念館のほか、1号館から5号館まで各県と団体が出展。
第2次世界大戦末期には日本海軍に接収され上陸用の船艇や、軍事資材が置かれていたのですが、戦後は米軍に接収され、将校ハウス35棟と、関連施設2棟が建設されたそうです。
昭和29年からはその米軍関連施設も徐々に変換され、昭和36年には公園としての整備が完了、現在に続いています。
また、昭和63年には横浜博覧会が行われ、公園の東側に地下駐車場と上部の公園を整備。世界の広場と、水の階段などが整備され、海に面した公園のイメージとは一味違った雰囲気の一画を創り上げています。
【世界の広場】⤵
【世界の広場】はポール状のオブジェとアーチが連なっており、素敵な空間に仕上がっています。
【水の階段】⤵
【水の階段】は長くアート感のある幾つかのお魚君や貝が描かれた水路から、最後はクジラ?の様な大口にしたり落ちて行きます!
こちらの施設、実は知らない人も多いみたいで、写真を見せると「ここ何処?」って問いが返ってきたりしますが、山下公園の駐車場の上にあります。
山下公園の歴史と7つの記念碑【記念碑】
山下公園は以下の7点の記念碑があります
⓵リカルド将軍の石碑
⓶「水の守護神」の像
⓷「ガールスカウトの像」
⓸理髪店発祥の地のモニュメント「ザンギリ」
⓹赤い靴の少女像
⓺かもめの水兵さんの歌詞の石碑
⓻「インド水塔」
一つ一つ解説して行きますね!
山下公園の歴史と7つの記念碑【リカルド将軍の石碑】
入口付近に1896年(明治29年)フィリピン独立のためフィリピン革命・米比戦争と挙兵し「フィリピン陸軍の父」とも呼称される英雄リカルド将軍の石碑です。
一時日本に亡命していた事から、日本を第2の故郷とみていた将軍。
遺骨は小平霊園の「大田家の墓」に葬られているんですね。
山下公園の歴史と7つの記念碑【水の守護神の像】
山下公園名物「バラ園」の手前には、姉妹都市のサンディエゴから日本から寄贈の「茶室」のお返しとして寄贈された「水の守護神」の像。
噴水は水の高さが徐々に変わり、ついには「水の守護神」の顔まで隠れてしまう程。
なかなかの迫力特に暑い夏にはあたりも涼しくなり良いです。
また、夜の姿もライトアップされて綺麗!
昼とは違った趣です。
水の守護神像の詳細はこちらをご覧ください。⤵

山https://takara3.com/archives/71下公園の歴史と7つの記念碑【ガールスカウトの像】
また、氷川丸のそばには日本とアメリカのガールスカウトの友好を記念した「ガールスカウトの像」があります。
正しくは、アメリカのガールスカウトの50周年と、ガールスカウト日本連盟の世界連盟の加入を記念したもの。
先述のとおり、山下公園は第2次世界大戦後米軍が接収。
1959年までに全面返還され、再整備が完了した後の1962年3月18日、日米のガールスカウトの募金によって「友好の証し」として建てられたものなんですね!
モデルとなった台座の2人は当時、高校3年生の日本人の女の子と11歳のアメリカ人の女の子。
手前は7歳のアメリカ人の女の子で、その後3人は半世紀ぶりに再会したとか。
台座には「やくそく」と彫られていますので、当時から再会の約束をしていたのかもしれませんね!
山下公園の歴史と7つの記念碑【ザンギリ】
面白いのは、理髪店発祥の地のモニュメント「ザンギリ」。
目が「ZAN GIRI」、口が「YOKOHAMA」とした、真ん中分けの人の顔が御影石に彫られているんですね。
彫刻家木村賢太郎の作品で、県理容環境衛生同業組合の創立30周年を記念して1989年に寄贈したものだそう。
ところで、横浜に初めて理髪店が出来たのが1864年(元治元年)。
横浜居留地の西洋人の理髪店として、「横浜ホテル」の中にヘアー・ドレッシング・アンド・シェイビング・サロンという店名で開店。
経営者は残念ながら日本人では無く外人だったそうです。
因みに、日本人初の経営者は小倉虎吉で、1870年(明治2年)現在の中華街にあたる横浜居留地の中国人宅の階下で営業を開始しました。
山下公園の歴史と7つの記念碑【赤い靴の少女像】
そして、横浜といえば、赤い靴の少女像。
歌詞もありました。
♬
作詞 / 野口雨情 作曲 / 本居長世
赤い靴 はいてた女の子
異人さんに つれられて行っちゃった
横浜の 埠頭から船に乗って
異人さんにつれられて行っちゃった
今では 青い目になっちゃって
異人さんのお国にいるんだろ
赤い靴 見るたびに考える
異人さんに逢うたびに考える
赤い靴はいてた女の子の名前は1902(明治35)年生まれのきみちゃんという
実在の女の子。
母の名は「岩崎かよ」という未婚の母で、きみちゃんは父親のいない私生児だったんですね。
母は再婚相手の夫、鈴木志郎と留寿都村への入植に挑むにあたり、危険な北海道の開拓にはどうしてもきみちゃんを連れて行けず、泣く泣くアメリカ人宣教師にきみちゃんを託し留寿都村へ。
しかし、離れ離れになった後、きみちゃんは結核にかかり、僅か9歳でこの世を去ってしまいます。
留寿都村への入植は結局失敗に終わり、札幌に出た鈴木志郎は新聞社に入社。
童謡『赤い靴』はその新聞社の同僚、野口雨情が母親の愛に感動し作詞。
本居長世が曲をつけて生まれました。
因みに、東京麻布十番のパティオ十番にも赤い靴の女の子「きみちゃん」の像が立っているそうですよ)
山下公園の歴史と7つの記念碑【かもめの水兵さんの歌詞の石碑】
かもめの水兵さんの歌詞の石碑も山下公園にありました。
歌詞は、作詞家武内俊子が、1933年(昭和8年)、ハワイに旅行する叔父を横浜港のメリケン波止場(現:横浜大桟橋)まで見送りに行った際、そこに群がるカモメの一群から水兵を連想し、1937年(昭和12年)に発表されたものなんですね。
♬
作詞 / 武内俊子 作曲 / 河村光陽
かもめの水兵さん
かけあし水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチャップ チャップ うかんでる
かもめの水兵さん
ならんだ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波をチャップ チャップ 越えてゆく
かもめの水兵さん
ずぶぬれ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波でチャップ チャップ おせんたく
かもめの水兵さん
なかよし水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチャップ チャップ 揺れている
歌っていたのは作曲した河村光陽の娘さんであり、童謡歌手の河村順子。
当時11才だったとか。
因みにこの記念碑は横浜開港120年の1979年(昭和54年)に建てられました。
山下公園の歴史と7つの記念碑【インド水塔】
そして、最後は関東大震災時にインド人を救済したお礼に進呈された「インド水塔」。
天井の模様が美しいので、お立ち寄りの際は是非下から見上げて見てくださいね。
尚インド水塔の詳細はこちらをご覧ください。⤵

山下公園の歴史と7つの記念碑【おわりに】
ここまで”山下公園の歴史と7つの記念碑(赤い靴の少女には悲しい実話が…)”というテーマで解説して来ました。
関東大震災の瓦礫で埋め立てて出来た山下公園。
戦前は日本海軍が戦後は米軍が接取、そして解放され現在の姿に!
また普段何気なく通り過ぎていた7つの記念碑ですが、今回調べてみるにつけ、「そんないきさつがあったんだと改めて思いました。
山下公園奥が深いです!
最後までお読みいただきありがとうございました。