神奈月さんといえば 武藤敬司や井上陽水のものまねが有名ですよね!
また、最近はカンチャンネル等のインスタグラムも開設と活躍の場をひろげている神無月さん。
今回はそんな ”【神奈月】さんの出生から高校の偏差値と現在に至る迄の軌跡”をご紹介致しますね。
【本日18時配信】(スタッフ)
今回は、
「ナニコラ!タココラ!」「跨ぐなよ!」「飛ぶぞ!」など
多彩な名言の多い長州力さんに関連するワードだけでカルタを考えてみました!はたして50音完成するのか!?https://t.co/AgBF8ZhsYD#長州力 さん#ものまね #かるた pic.twitter.com/PsfAnp5BoT
— 神奈月 (@kanchannel1103) March 18, 2022
神奈月さんの出生から小学校
神無月さんは1965年11月3日、美濃焼の産地であり、織部焼発祥の地でもある「陶磁器生産量日本一のまち」岐阜県、南東部の土岐市に生まれます。
家族構成はご両親と兄の4人家族。
同じ年生まれとしてYOSHIKIさんなどがいます。
神奈月さんの小学校
神無月さんの小学校は、土岐市立駄知小学校
この頃の神無月さんは野球が大好き。
神無月さんの初めてのものまねは小学校4~5年生の時。
まだリングネームが吉田光雄だった頃の長州力の仕草を兄に披露したのが始まりだそうです。
その頃、長州(力)さんが吉田光雄というリングネームでデビューしたんですよ。レスリング界から鳴り物入りで入ってきたので、強い相手を当てられてしまって勝てない。その様子をまねしようと思って、張り手を受けた時のリアクションの仕方とかをやっていました。兄貴にやったら、笑ってくれました
ORICON NEWS. 2017年7月10日より掲出
そして、あのねのねが司会を担当した『発表!日本ものまね大賞』などの視聴者参加型のものまね番組を好んで視聴していた神無月さん。
当時人気だった竹中直人、小堺一機らの活躍を観て、より、ものまねに惹かれていきます。
僕らが小さい時は、ものまね芸人という枠がなくて、歌手の人がかくし芸的にものまねをする番組と、素人参加の番組があった。あのねのねさんが司会をやっていて、紙に書いたレパートリーを素人さんたちが披露していくんですけど、そこからみんながプロになっていく登竜門的な番組でした。そこで竹中直人さんとか小堺一機さんとかを見て、ものまねって面白いなって
2017年7月10日 ORICON NEWSより掲出
神無月さんの中学校と高校
この辺の話で思うのは、中学や高校を舞台にした創作は、それより年少の頃にこそ一番楽しく読めるのではないかなと、我が身を振り返ってしみじみと。「憧れを知る者のみ我が悩みを知らめ」なんて言葉もありましたな。 https://t.co/P69bp5HJHr
— 神無月久音 (@k_hisane) February 8, 2018
神無月さんの中学校
神無月さんの中学校は土岐市立駄知中学校です。
部活は小学生の頃から大好きだった野球部。
将来はものまね芸人よりも、プロ野球の選手になりたかった様です。
この頃は長島監督の時代ですから、後にものまねのお題となる長島監督の采配も生で見ていたんでしょうね。
神無月さんの高校時代
神無月さんの高校は多治見北高校、
卒業生には同じ土岐市出身フリーアナウンサーの近藤サト(元フジテレビ)さんがいます。
神無月さんの高校の偏差値は?
偏差値は驚きの69
小学生の頃からものまねをしていた神無月さんですが、高校でも文化祭などで先生や芸能人のものまねを披露して、生徒から人気があったそうです。
また高校2年生の時、中京TVの情報番組『5時SATマガジン』の『ローカルスターベストテン』にものまねで連続でランクインし、第1位に輝く等、地元では知られる存在に!
なんと、ギャラが1回6000円で、1クール(3カ月)ぐらい出演していたそう。
そして、時は2ビートやB&B等が活躍していた漫才ブーム。
もうお笑いが大好きで! 高校生の時に漫才ブームがあって、そのあと「オレたちひょうきん族」を見て育った世代ですから、どうしても芸人になりたかったんです。
2019年12月13日 exciteニュースより掲出
プロ野球選手になりたいという神無月さんの夢は、いつしかお笑い芸人になりたいという夢に変貌を遂げていた様です。
神無月さんのデビューから現在に至るまでの軌跡
六大学を中退しているたけし・タモリに憧れて大学を目指すも合格せず、芸人の道に進んだ神無月さん。
ビートたけしさんもタモリさんも六大学を中退しているから、それに憧れて大学に行きたかったんですけど、受からなくて。結局、コンピューターの専門学校に通いながら池袋のショーパブでアルバイトを始めたんです。
2019年12月13日 exciteニュースより掲出
酔った客相手という事で、いつの間にか下ネタが増えてしまった神無月さん。
テレビのオーディションも「下品だから」という理由で落ちることが多くなります。
そんな時、そのショーパブで神無月さんの芸を見た芸人さんに「君はおもしろいんだからちゃんとネタを作ったほうがいいよ」と言われて奮起。
3分程のものまねネタを作ると、渡辺正行さん主催の「ラ・ママ新人コント大会」のネタ見せ採用され、定期的にライブに出られる様に。
因みに神無月さん『5時SATマガジン』の経験から弟子入りはせず、また事務所にも所属せず、マネジャーも雇わないという完全に一人でやっていました。
転機になったのは「ものまねバトル」(日本テレビ系)で「長嶋監督のモノマネ」が世間に認知されたこと。
ただ、認知され仕事も増えた分、世間からは「長嶋茂雄のものまねしかしない人」とのイメージが定着。
そんな中、2000年に事務所も太田プロに所属し、同年のものまねバトル大賞で萩原流行のものまね「りゅうこうと書いて、ながれと読むんです」を披露したところ絶賛!
以降「長嶋茂雄のものまねしかしない人」とのイメージは消え、ネタも武藤敬司や井上陽水その他、その時々の話題の人物のものまねを披露。
着実に実績を積み上げ現在に至ります。
まとめ
ここまで ”【神奈月】さんの出生から高校の偏差値と現在に至る迄の軌跡”をご紹介してきました。
現状に満足せず、常に新しいものまねにチャレンジしている神奈月さん。
この先も更なる活躍を期待しています。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
♦神無月プロフィール
本名: 奥村 聡司(おくむら さとし)
ニックネーム :ものまね破壊王、ものまねバカ
生年月日: 1965年11月3日
出身地: 岐阜県土岐市駄知町
血液型: B型
身長 :172cm
師匠 :佐々木つとむ
芸風 :ものまね
事務所 :太田プロダクション
活動時期 :1987年 –